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河内一馬『競争闘争理論 サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか? 』

f:id:You1999:20221028112452j:image海外でプレーする選手も増え、選手の質に関して言えば世界との差というものはどんどん縮まってきているはずなのに、日本は何故、サッカーというスポーツで世界と渡り合えないのか、ましてや2021-2022年のW杯アジア最終予選で苦戦してしまったりするのだろうか、という疑問を感じずにはいられない、昨今の日本サッカー界への不信感が募ったモヤモヤした心を、「それは“闘争”ではなく、“競争”をしてしまっているからだ」という結論でもって晴らしてくれる本が、鎌倉インターナショナルFC(神奈川県社会人サッカー2部リーグ)監督、河内一馬著『競争闘争理論 サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか? 』である。

まずもって数多あるスポーツを分類し、サッカーという競技の定義を徹底的に突き詰めることから本書は始める。ノエル・キャロル『批評について』から引用し、カテゴライズすることの意義を訴え、日本人は「サッカー」という競技を分類ミスしてきたのだ、と主張する。

「闘争」と「競争」という二つの軸を用意して、「闘争」を「相手に何らかの妨害を加えたりして影響を与えるもの」、「競争」を「自分の技術を最大限発揮するもので、相手に妨害を加えるなどすることを許されていないもの」と定義づけるのだ。さらにそれを細かく6分割にし、①個人競争(短距離走、ゴルフ、フィギュアスケートetc)、②団体競争(陸上リレー、競泳リレーetc)、③個人闘争(ボクシング、レスリング、柔道etc)、④団体闘争(サッカー、バスケ、ラグビーetc)、⑤間接的個人闘争(テニス、卓球etc)、⑥間接的団体闘争(野球、バレーボールetc)とスポーツをカテゴライズする。そして、④においてだけ日本は世界のトップと渡り合えていない、と指摘する。それは、「闘争」にカテゴライズされているはずのサッカーというスポーツで、日本人は「競争」をしてしまっているからではないか、というわけだ。なるほど。

ここで例外として、W杯2011で優勝を成し遂げた女子サッカーが挙げられるのだけれど、それはその時の女子サッカーは競争という枠組みに分類ミスされていても、まだ個人の技術による競争によって勝利を収めることが可能だったからであり、欧州で「闘争」としてのサッカーカテゴライズが正当に成熟していけば、女子サッカーも勝てなくなるのだ、と。

日本の「女子サッカー」は、その他の「団体闘争」と同じように、今後世界トップの成績を残していくことは難しくなるだろう。また、それにもかかわらず、「男子サッカー」と同様に、個人として世界レベルのクラブで活躍する選手は増えていくだろう。p54

昨今の女子サッカーを見ていれば凄まじい慧眼であるように思える。各々が持つ技術を発揮(実行)する権利が保障されていれば良いだろうけれど、「闘争」という影響を受けるスポーツに成熟すれば、そのままの競争的思考態度でプレーしていては負けることは必然である。

それゆえ「練習→試合」といった自信醸成ではなく、「試合→練習」といった思考態度が求められるのであり、過度な量を追求する「競争的思考態度」によって起こる理不尽な練習や体罰は意味をなさないだろうとも言及されている。

日本サッカーで育った私が、これまで欧州のサッカーを視察して、あるいは南米に住みサッカーを学んで感じた「日本サッカーとの違い」とは、まさにここにある。私たち日本人は、“あたかも技術を発揮(実行)する権利が保障されているかのように”ゲームをプレーし(それはまるでゲーム中に技術の見せ合いをしているかのようである)、また、トレーニングを重ねるのである。p91

サッカーは影響のゲームであるため、そのための練習と試合の関係が必要なのだ。もちろん技術がいらないという話ではない。「試合よりも練習の方が良いプレーをする」日本人に対して、「練習よりも試合の方が良いプレーをする」外国人というよく言われる構図もこういったことからきているのだろう。日本人は「内的集中」によって、視野が狭まり「闘争」であることを忘れ、「競争」に認識を変えてしまうのである。練習でボコスカ外していた助っ人外国人が試合ではミラクルシュートを放ってしまうとかはよくある話ですよね。練習のミニゲームでは良い感じだけど、試合だと微妙とかありますよね。

第7章にある、サッカーにおける「良いプレーヤー」(P181)という節では、「コミュニケーションを成立させながらプレーを行える」ことが挙げられている。相手への影響だけでなく、味方への影響があるのも団体闘争であり、意思、意図の共有、そしていわゆる戦術的ピリオダイゼーション的な原則も必要になるだろう。しかし、なによりも意思がすべての基盤になるのは言うまでもない。チームとしてのコンセプトである。

鎌倉インターナショナルFCのホームページを一見してみればカッコいいと感じるだろうけれど、そのブランディングの重要性は最後の第9章“なぜサッカーは「カッコよくなければならない」のか”に記されている。「見られること」を意識し、カッコつけることによって、自らの組織を肯定し自尊心を持つ。それによってピッチでの「振る舞い」が変わり、ゲームが変わる。個人にとどまらないサッカーというスポーツであるから、自分、味方、相手、観客に向けた見た目による影響は大切だろう、と。試合後のインタビューで「〜表現する」という言葉が使われていることもそれを裏付けているだろう(ネイマール、ポグバとかめちゃカッコいいですもんね)。本書では、「見た目(センス)」は教育問題に行き当たるとして、「プロサッカーの世界(プロスポーツの世界)」は"センス"を養う時間を子供の頃に与えられなかった大人たち(スポーツに子供・青年時代を注ぎ込んだ大人たち)でいっぱいになる。つまり日本のサッカーが、個人でも組織でも"ダサい"のは、ある種、必然なのである」(p277)なんていう辛辣なメッセージが最後の最後で放たれている。そこにいる人たちは「競争」としてのサッカーによって、その立場まで登り詰めた人たちであるだろう。しかし、サッカーは「闘争」であって、これからはこれまでの「競争」では勝つことが難しくなっていく。さて、今年のW杯はどうなるでしょう。(修正も含めた)原則はあるのか、それを支える強い意思はあるのか、明確なコンセプトはあるのか、気持ちを込めて“闘う”ことはできるのだろうか。今こそ「闘争」が必要なのだ。