昨日の今日

沖田修一『子供はわかってあげない』

主演 上白石萌歌 最新作...映画『子供はわかってあげない』スペシャル動画 - YouTube 2020年夏に公開されるはずであった沖田修一による田島列島子供はわかってあげない』の映画化作品が、2021年、ようやっと公開された。本作と『おらおらでひとりいぐも』を同年に2作連続して鑑賞できれば、そのテーマをより濃密に体験できたであろうから、やはり映画はそのときに公開されなければならない理由があることを改めて認識しました。しかし、沖田修一印がそこかしこに散りばめられている本作は2021年に観ても最高なものであること間違いなしですので、鑑賞必須!贅沢な長回しによって映し出される“夏”には、田島列島沖田修一のテーマが共鳴した、取りこぼすことのできないティーンエイジャーのかけがえのない時間が収められている。傑作ガールミーツボーイである。

上白石萌歌 adieu〉

主演に上白石萌歌が起用されているからして、adieuの歌詞が全体に行き渡っていることを意識せずにはいられないでしょう(本作でも「明日にはそっちいくから、アデュー」という台詞があるし、原作には上巻66頁に「お兄ちゃんはヒマ人じゃないのよん、アデュー」という箇所がある)。

蒼い空細い雲 のばした手が
やっとつかんだ答えは脆くて
風に溶けて消えた
ゆらいだ未来を見つめ続ける瞳が
この世界のどんな星よりも眩しいことを
嗚呼 あなただけがいつか抱きしめて教えてくれた
真実でありますように
蒼い海靴紐ほどけたまま
知らないふりしてだまされてあげる
夢が見られるなら
今日もこの世界でひとりつまずいて増えてく傷を
鳴呼 あなただけはいつか勲章に変わると言った
真実でありますように

adieu『蒼』

プール、海、空、Tシャツ、リュックサック、涙など様々な“蒼”を映し出す『子供はわかってあげない』は、青い空の下で、ゆらいだ未来を見つめ続け、手を伸ばす映画である。そして、そんな瞳は眩く、美しい、という映画なのである。『蒼』はTVアニメ『GRANBLUE FANTASY The Animation Season 2』EDにも使用されていて、そのままアニメへとつながりがある楽曲でもある。『子供はわかってあげない』もアニメのシーンから始まるのだ。

〈バトンを次の誰かに渡すこと〉

昨年に上映された沖田修一『おらおらでひとりいぐも』は、冒頭で地球で暮らしてきた生物の歴史が映し出されて、そのつながりとして主人公・桃子さんが生きている現代へやってくるという印象的なシーンから始まる。壮大なシーンの連なりに私は一体なにを観に来たんだっけ、と疑ってしまうほどであったのだけれど、そこには確かに沖田修一が作品に込めた継承のモチーフが描かれていたのであった。そして、本作『子供はわかってあげない』においても、またもや私は一体なにを観に来たんだっけとなってしまうような(上白石萌歌GYAO! #LOVEFAV』にゲスト出演した細田佳央太も「あれ、俺はなに観に来たんだっけ?と一瞬思う冒頭」と言及している)冒頭なのだけれども、セメント伯爵のもとに魔法左官少女バッファローKOTEKOがやってくるアニメシーンには、確かに継承のモチーフが描かれている。家を建てたり、塀や壁やビルや橋をつくって人々に喜びを与えているモルタルやコンクリとは違って、自分自身にはまったく価値がないと言うセメント伯爵に、KOTEKOはビンタする。

伯爵は作ったじゃない!こんな立派な子供たちを。すべての礎となるモルタルやコンクリを作ってくれたじゃない!

沖田修一は、この継承のモチーフを冒頭に据え、田島列島作品との共鳴を宣言しているのだ(そして、さらに『おらおらでひとりいぐも』も合わさる。それだから、同年に公開されなかったことは本当に惜しい…)。

世界に必要なのは「自分にしかない力」じゃない
「誰かから渡されたバトンを次の誰かに渡すこと」だけだ

田島列島子供はわかってあげない』下巻

誰から誰かにバトンを渡すということ。ティッシュの箱を母親から父親へ、そして、『魔法左官少女バッファローKOTEKO』を観ながら涙を流す美波の元へと届けられることによって、継承を描き出す沖田修一のさりげない演出が白眉だ(涙を流す人へ誰かの手が届くという運動は終盤へつながっていくのだ)。そして、リビングをぐるぐる回る美波と弟を贅沢な長回しショットで撮らえる。途切れることなく回り回っていく他者との交感を、円を描くことによって描き出す。およそ冒頭のシーンだけでこれだけのことをやってのける沖田修一、凄まじい人である。最後には丸い形をしたお掃除ロボットがリビングに侵入する。かわいい。この丸いイメージは沖田修一長回しと実に相性がいいのだ。

長く連綿と受け継がれることによって保たれる世界の丸さ、世の中を、市井のひとの生活を映し出すことによって描き出す。

「ほんとうに上手に書いた字は半紙から直接出てくることがあります。例えば、火って字を上手に書けば、半紙から直接火が出て燃えるし」

「どんなにこっちがHP削って教えても、あの子たちは僕のこと忘れてしまうだろうよって」

「えー、でもさ、門司先生のことは忘れてもその子の書く字にもじくんが残るじゃん。それってすごいよ」

「てか、もじくん、教えるのうまいね!」

「別に、人は教わったことなら教えられるから、いや、だって朔田さんも泳ぎ教えられるでしょ」

「あー、どうだろう、教えたことないけど」

「できるって、絶対」

“朔田美波”ともじくんが書けば美波が現れ、“もじくん”と書けば目の前にもじくんがいる。ラストシーンでは友光が海に浮くシーンで終わるのだ。誰かから渡されたバトンを次の誰かに渡すこと、そんな奇跡の連続で世の中はできている。

〈美波と門司くんのダンス〉

セメント伯爵とモルタル、コンクリを引きあわせたKOTEKOは屋上にて、美波ともじくんを出会わせる。2人がKOTEKOについて話しながら階段を降りていくシーンは途切れることなく、長回しショットによって螺旋状に円を描いていく。様々な生徒の間を通り抜けながら、一階までやってくると、美波は耳に入った水を出そうと手を当ててジャンプをする。それに合わせて、もじくんも耳に手を当てジャンプをするのだけど、もはやそれはダンスを踊っているように見える。2人が共鳴し、ダンスする。そう、つまり、デミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』である。2人が階段を降りていく背後で外を覗き込む生徒、廊下を歩く生徒、教室に入っていく生徒、談笑する生徒、ワーワー騒ぎながら走り抜けるサッカー部などなどの動的な連なり、これはなんとも映画的な楽しさに満ち溢れているのであり、学園モノを正しく映し出すことに成功しているのだ。沖田修一長回しを抜群に相性良く発揮させるための最適解は、あのノーカットのミュージカル・シークエンスを意識することであったのかもしれない(また、本作では美波の一人称視点のショットであったり、友光との切り返しショットであったりと長回しだけではない部分も多く用いられている)。そして、別れ際の会話もデミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』と共鳴しているのだ。

「じゃあ、私、あっち」

「僕もカバン、部室だから」

「あれ?部室どこだっけ?」

「三階」

「ああ…」

「じゃあ!」

美波とお話ししながら一階まで降りてきてしまったのだね!とめちゃキュートなシーン。まさしく、公園でダンスを踊ったあとに、パーティー会場まで歩いて戻るセブのキュートな後ろ姿である。

〈眩い瞳〉

ミーティング中によそ見をしてしまったり、泳ぎながら笑ってしまう美波は、告白するその寸前でも笑いが込み上げてきてしまうのである。もじくんはそんな美波の瞳の前に手を伸ばす。涙が、言葉が、溢れ出す(そして、上白石萌歌のほっぺ!)。もう一度、adieu『蒼』を引用しておこう。

ゆらいだ未来を見つめ続ける瞳が
この世界のどんな星よりも眩しいことを

adieu『蒼』

絶望したり、不安に思っているそれらは、もしかしたら、「いいもの」であるのかもしれない。そんなちょっとした希望を目撃できる、そんな瞬間が収められているフィルムなのである。未来を見つめ続ける瞳は眩い、たったそれだけのことにどれほど勇気づけられることだろう。原作におけるハードボイルドな展開や新興宗教団体のあれこれ、明大の探偵パートなど、様々な部分がカットされているけれども、それは美波の瞳から眼差されたひと夏の出来事であることをより瑞々しい印象づけるのだ(『ラ・ラ・ランド』はその2人だけの世界による狭い描き方が批判の対象にもなっていたけれども、『子供はわかってあげない』はまさにそのことによって瑞々しく仕上げられている)。

〈好きなところ〉

最後に好きなシーンを羅列して終わりにしたいと思います。

・“な”が出ているシーンはどれも最高なのだ。まさに『桐島、部活やめるってよ』の映画部の先生である。力の抜けた佇まい、最高です!

・階段を駆け上がる、降りるシーン。沖田修一長回しショットの魅力に溢れている。

・門司くんのお父さんが書道家ということに笑う美波に、「あんまり人の家を笑わないで」と門司くんが言うところ。

・「おい、人の通帳見て泣くなよ」

・「とりあえず、入りなさい」と言われて、テントに入ろうとする門司くん、最高!それを見てケラケラ笑っている美波も最高!すべてがゆったりとしたショットのなかに収められているのだ。沖田修一の次作も期待して待ちましょう!