昨日の今日

松本壮史×三浦直之『サマーフィルムにのって』

大ヒット上映中!『サマーフィルムにのって』本編映像 - YouTube

映画ってさ、スクリーンを通して今と過去をつないでくれるんだと思う。私も私の映画で未来につなぎたい。

私たちが今、映画を観ることができているのは映画というものが存在しているからであって、映画が存在しているのはそれをつないでくれていた数多くの人々がいたからであって。時代劇に魅せられたハダシ(伊藤万理華)は連綿と受け継がれきたその思いを未来へと自らの映画でつないでいきたいと思うのだった。そんな思いを受け取り、映画に魅せられた青年・凛太郎が未来からやってくる。細田守時をかける少女』や上田誠サマータイムマシン・ブルース』を想起させるようなシーンを盛り込みながら、想いは確かに届くというメッセージを込めた実に真っ当なボーイ・ミーツ・ガール青春映画である。過去から未来、スクリーンからリアル、時代劇からラブコメ、縦横無尽に行き来しながら、サマーフィルムを作り上げていく『サマーフィルムにのって』は、なんとも自由な映画なのだ。この自由に行き来できてしまうことが何よりの証左となっていて、未来の前には過去があって、過去の先にはしっかりと未来という行き場がある。そうであるから思いは確かに届くのである(届いているから凛太郎は未来からやってくるのだし)。しかし、なんといっても本作の白眉でありながら、難しいところでもあるラスト、学園祭での上映シーンにおいて、上映を途中で中止し、スクリーンではなくリアルに飛び出していく瞬間のために、その自由さのために本作のテーマは揺らいでしまう感は否めない。

今からラストシーンをやり直します。今、この瞬間が、この映画のクライマックスです。

とスクリーンの前に立ち宣言し、その場で映画の撮り直しを始めるのであるけれど、その場にいた観客にとってはこれを映画の続きとして目撃するにはあまりにも難しい。そもそも時代劇を観ていたはずが、映画撮影の演劇のようなものが始まるのであるから、そこに連関はないのであって、目の前で繰り広げられている、現在化しているそれはもうその瞬間を閉じ込め、過去のものとする映画ではなくて、もう演劇なのである。「スクリーンを通して今と過去をつないでくれるんだと思う」という今と過去をつなぐ映画への願いを込めたハダシの台詞はそのままハダシによって遮断されてしまうのだ。

演劇と映画との相違の一切は次の点にある。何ものもそれを消し去ることは決してないであろう。映画が色彩と立体観を与えるようになり、視覚的錯覚が完璧になったとしても、決してわれわれに与えられない錯覚が一つある。それはすなわちスクリーンの上を動く影とわれわれが同じ時を共有しているという錯覚、同じ瞬間に同じ空気の断片のなかで同じ空気を呼吸している、という錯覚である。p32

アンリ・グイエ『演劇の本質』

アンリ・グイエは演劇と映画の違いをこう説明しているのだけど、本作は上映をやめ、映画の撮影を開始し、それを外から観客が眺めるという形なのであり、これを演劇ではないものとして見てみることとして(そもそもハダシは「私も私の映画で未来につなぎたい」と言っていたのであるから、演劇にしようとは思ってないのだろうから)、それでは、この演劇的なものを撮ったものを観ること、それは映画を観ることになりうるのかということを検討する必要があるのだけれども、アンリ・グイエは、

今日、スクリーンの上にファヴァール夫人やタルマを、『エルナニ』の初演やモリエール劇団を見ることができるならば、われわれの喜びや考証的知識はいかばかりのものとなるであろうか。しかしそのようなフィルムは、演劇も映画にも属するものではないであろう。それは映画化されあ演劇の一つであろう。映画芸術が映画化された演劇に近づくかぎりにおいて、それは演劇になることはなく映画であることをやめる、すなわちできそこないの映画となる。p34

アンリ・グイエ『演劇の本質』

と示すのである。つまり、この演劇を撮ることでは映画にはなり得ない。なり得たとしてもそれはできそこないの映画なのである。これがハダシが未来へつなぐために作りたかった映画であるのかはわからないかけれど、ハダシは凛太郎に訊くのである。

あなたが見てくれた、見つめてくれた

私が時代劇に感動して、それをつなぐために映画を撮り始めたみたいに、この映画を見た凛太郎が、きっと未来に繋げてくれる。でしょ?

やはりどうにも矛盾したラストになってしまっている印象は拭えず、『サマーフィルムにのって』というタイトルや“映画の映画”であった本作なのだから、それをまったく塗り替えてしまう演劇の要素はテーマをぼやけさせてしまっていると思うわけなのである。演劇として再上演求むといったところであります。

と、書きましたが、それでもやはりこの映画を擁護したい気持ちはあるのでして、なんてったってビート板を演じる河合優実の眼差しには素晴らしいものがあるし、ブルーハワイ役の祷キララは巧みな演技の振り幅を見せているわけで、伊藤万理華の卑屈になりすぎない爽やかな佇まいやオーラには青春映画を一身に背負ってしまえるほどの瑞々しさがある。そんな青春映画を体現している彼女たちが発する「好き」にはとんでもない自由な響きがあって、形式なんかにはとらわれないのかもしれない(一貫性のなさこそが青春性であるのだ)。これからの未来の予定では、ハダシは傑作をたくさん撮っていくのであるし、これはまだたった一作品目なのである。