昨日の今日

熊倉献『春と盆暗』

f:id:You1999:20210206212922j:image誰かを好きなる瞬間をやさしい絵のタッチと会話で描いていく4つの物語。なんだかいつも相手のことが気になって、考えているような気がする。所作のひとつや匂い、残していった手がかりに思いを巡らせ、イマジネーションを働かせる。それは新たな世界を創造できてしまうくらいに素晴らしいことなのかもしれない、とちょっとずつ不思議なストーリーは徐々に私たちを熊倉献の世界に引き込み、魅了していく。

 

〈月面と眼窩〉

接客を必要としないアルバイトを探すゴトウ君は道すがらに出会った、アルバイト募集の張り紙をしているサヤマさんの笑顔魅せられて、そのままそこのお店で働くことに決めてしまう。“にこっ”という素敵な笑顔を持つサヤマさんはお客さんにも大人気。接客以外に、世間話などにも付き合わされてたりしている。すると、ゴトウ君はあることに気がつく。なにやらサヤマさんはお客さんと話をしながら、手を後ろにまわして、グーパーグーパーしているのだ。ゴトウ君は思い切って聞いてみる。「グーパーグーパーしてますよね?あれ・・・何ですか?」と。すると、サヤマさんは

・・・モヤモヤした時は月面を思い浮かべて、そこに思いっきり、道路標識を放り投げるんです

と言うのだ。

ゴトウ君はまた変なものを見つける。月と目玉が並べて描かれている絵。気になって、また聞いてみる。「・・・あのサヤマさん、これって目玉ですか?どうして目玉なんですか?」サヤマさんは答える。

・・・なんか月って眼球と似てるから・・・眼窩にすっぽりはまりそうな感じが––––しませんよね、ごめんなさいっ」

それでも聞き足りないゴトウ君は気になってしょうがない。「でも、うつるといけないから…」と言い残して、サヤマさんはお店を辞めてしまった。そのあともゴトウ君はサヤマさんのことを考える。考える。

 

〈水中都市と中央線〉

この話もいい。2人の頭の中で共有されていく水中都市というなんとも壮大な世界!東京を水に沈めてしまおうというアイデアから、2019年の傑作『天気の子』を連想するかと思うのだけれど、この『春と盆暗』はすでにその2年前にボーイミーツガールの想像力の結実として、東京を水に沈めてしまっていたのである。スーハースーハーと息継ぎをする少し不思議な仕草のなんと可愛らしいことよ。それが男女の身長差のでもって展開されていくことの面白さもいい。また、『天気の子』で帆高が線路を走っていたように、『春と盆暗』でも同様に電車というアイテムが登場するではないか。誰かが忘れた玩具のレールが2人を引き合わせ、神田、立川、中野、三鷹、新宿、国分寺と名前をいくつも変えていくなかで、四谷という本名が浮かび上がる、その滑らかに描かれていく連綿性。最後のページ、コマまで最高なので必見です。

 

〈仙人掌使いの弟子〉

いじめっ子がティラノと呼ばれる少年の頭に消しゴムのカスを飛ばして笑っている。ティラノは何も言わない。頭に当たってはピンピンと跳ね返り、床に落ちる。それをただ眺める名取ススムくん。どうしたものか、とは思うんだけれど、どうすれば良いのかもあんまりわからないのだ。

ある日、ススムくんはじいちゃん家に行き、そこで、はとこのさわ姉に会う。さわ姉は不思議だ。名取くんが咳をしている父親に向かって、「マスクしろよ…」とぼやくと

この宇宙を支えてる重要な法則のひとつに“その場で一番 咳をしている人はマスクをしていない”というのがあって、これはもう絶対に動かせないんだ。無理にマスクなんて着けてごらん、一瞬で全銀河崩壊だよ

と言うし、話の延長で恐竜の絵を描きまくったりする。その他にも

甲子園の砂は家の植木の土にかけるんだよ。甲子園の土には、汗とか涙とか歓声とか負けた奴の怨念とか色々入ってるから、植物もつられて活気づくわけさ

(コーヒーを)毎日逆立ちしてたら、脳の血流が変わって、おいしく飲めるようになるよ

などなど色んなことを教えてくれる。「中学生のときどんな感じだった?」と尋ねると、「あのときは暗黒時代だった」と返ってくる。そんな不思議なことの連続でススムくんはとにかくいろんなことを考えてしまう、考えて、考えて、その思考する運動がティラノ(矢野くん)を救い出すことにも成功つながっていくというなんとも美しい物語。最後、逆さになって、世界を見つめる2人に幸あれ、なのです。

 

〈甘党たちの荒野〉

頭の中の想像で早送りをすることができる青年・ホシノ。それは、目の前の人の皺を増やし、頭髪を薄くさせ、だんだんと身体の組織を壊しながら、溶かしていき、最後には骸骨にしてしまうことだって可能なのだ。

それ巻き戻しはできないんですかね?

あるとき、ホシノはケーキを巻き戻したいと言う女性に出くわす。あるケーキがなぜ美味しいのかを突き止めたいというわけだけども、はっきし言ってこの話には大したものはない。大したものはないというと語弊があるけど、何かを起こしたり、どうやって終わらせようかというようなものまでは意識されていないのだ。早送りも巻き戻しもしない、ただただ揺蕩うその2人の物語という幸福な時間のゆっくりとした前進。それを構成する固有性ともいえる立ち振る舞いの描き方にやさしさが宿っている。熊倉献の作品を読むいうことはこういうことなんだと実感するわけである。とても良い。

 

春と盆暗 (アフタヌーンコミックス)

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